みなさんこんにちは。ブログの更新が滞っていました。
私の母が先日、八十あとちょっとで二歳で、天国に旅立ちました。
葬儀も済ませ、お陰様で無事に見送ることができました。
介護施設での「看取り」
老衰で延命治療せずの自然死で、枯れるように穏やかな最後でした。
哀しい出来事ではあるはずなのに「美しさ」「爽やかさ」すら感じる去り方でした。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
以前までは「死」というのは怖いと思っていましたが、
母がそのプロセスを見せてくれたことで、老衰で死ぬことは怖くなくなりました。
先に逝って「大丈夫だよ。」と言ってくれている様に思いました。
老衰ではなくて最後の最後まで闘病の手段がある場合もありますから。
「そんなとき自分はどうしたいのか?」
今後じっくり考えていかないといけないこととも思いました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
色々書くことには尽きませんが長くなってしまうので、今回の記事では初めての「看取り」の体験談に絞って書くことにします。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「看取り」の選択
先月、母が体調を崩し入院させたとき、余命が短いことを告知してくださった医師によると・・・
「今は医学技術が進み過ぎていて、胃婁や人工呼吸などでいくらでも長生きさせることが出来てしまう。しかし、僕はそれは不自然なことだと思う。”人は食べられなくなったら終わり” それが自然なことだと思うし、仮に僕がお母さんの立場だったら「延命治療」はしたくはない。…というのはあくまで僕の意見なんだけど、どうします?お母さんはどんな考えの人でした?」
とのこと。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「病院で死ぬのが当たり前と思っていた私」
私は1972年生まれ、丁度、病院で亡くなる人と自宅で亡くなる人の割合が逆転する頃に生まれました。
『「看取り」が出来るのは生前から”死に対する問題意識”が高い元気な家族と、看取りに精通した医師や看護師に恵まれている人だけ。』と思い込んでいたので、最初の感情は驚きと不安でした。
『死ぬときに病院に行かないなんて!』
急に放り出されたような気持になりました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
今は「看取り」への転換期らしい
ケアマネージャーさんによると、「今は胃婁を選択する人も減少傾向で、訪問看護や往診医も普及し、「看取り」の体制が整ってきているので大丈夫ですよ。」とのこと。
”往診医との面談”、”施設との面談”をお願いして聞いてみると「看取り」の経験も多くこなしてきている様子。
自分でも本を読むなど調べてみると、大丈夫そうに思えてその方向で動きました。
元気な頃、母は「人間には自然治癒力があるんやで!」が口癖なくらいのナチュラル志向だったのが決め手でもあります。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「看護師の絵画友達に相談」
~”選択は委ねられる”けど、”充分な判断材料”が与えられるとは限らない現状なんだもの~
とはいえ、母親が亡くなるなんて生まれて初めてのこと。
母は12年前からの脳梗塞でコミュニケーションができない。
父は既に他界しているので、ひとりっ子の私が「母にとっての最良とは何か?」考えて選択しないといけない。
反応が無い事が殆どで哀しい気持ちになることのほうが多い、どこまでがゴールわからない長距離マラソンを走っているような12年間だったけど、ここはもうひと頑張りしたい。
ただ、そのときに「何を頼りに考えていいか?」わからないんですよね💦
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
というのは施設での「看取り」でも少し選択せねばならないことがあるんです。
全部お医者様任せだった昭和の頃と違って、「食事はどうしますか?ストップしますか?」「酸素はどうしますか?」「点滴はどうしますか?」「全部自由です。ご家族さんの意向で決めてくださって結構なんですよ。」って、聞かれます。
家族は「最良の選択」が出来ればいいだけなのだけど、最後に及んで「それをしたらどうなるか?」是非がわからないんです。メニューのAセットBセットを選ぶのとは訳が違うんですよ💦
そこで、10年来の付き合いになる同い年の看護師の絵画友達に相談させてもらうことにしました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「看取り」は死に目に会えなくても普通
友達とは、”ぶっちゃけた話”が色々出来たから不安が払拭されました。
「わからないことがわからない」んですから。
『病院で亡くなる場合は身体に計器を色々つけているから、危篤のときが察知できて、死に目に会わせやすい。でも、「看取り」はそういった計器に繋がれずに自然に亡くなるから、かえって死に目に会えなくても普通の事なんだよ。』には目から鱗。
実際に死に目には会えなかったんだけど、それを知らなかったら心穏やかじゃなかった可能性大。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「寄り添う助言」に救われる
幸い私は、最初の医師と看護師の友達が「自分の経験からどう実感しているのか?」それに沿ってアドバイスしてくれたから本当に良かった。
ケースによっては
医師「胃婁しますか?どうしますか?」
家族「胃婁すればどうなりますか?」
医師「長く生きれますよ。」
家族「では、お願いします。」
という感じで、「気管切開による人工呼吸」や、「投薬」「点滴」についても同じやりとりがなされ、結局「生きているだけ」という、「本人にとっては死ぬに死ねない苦しい状況」に陥ることも多いみたいですから。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「医療や介護の問題」ではなく、「コミュニケーションの問題」と思った
「長く生きれますよ(医師)」と聞いて「では、やめておきます!(家族)」と言うのはよほどの信念が無いと選択できませんよね💦
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
↓ 参考になった本
看護師×僧侶×ケアマネージャーの肩書を持ち「看取り」について活動されている方 旦那さんを若くして病気で亡くされているけれど、その最後が”枯れるように穏やか”だったことから活動に目覚められたようです。たまたま検索で見つけたのだけどとても参考になりました。
↓ こちらも良かったです。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
事前に関心を持って「自分なりの価値観」を持っておくほうがいいと思った
点滴をしすぎると体が浮腫み肺に水が溜まり、痰が絡み、溺れるように苦しくなる、遺体も皮膚からその水分が染み出して処置が必要だったりする。
苦しそうだから酸素をするのだけど、もしかしたら自然の鎮痛作用を妨げているかも知れない。
また、苦しそうで見ていられず「看取り」を選択したけれど救急車を呼んで結局”スパゲッティー症候群”(身体に沢山チューブ類をつけた状態)になるケースもあるらしい。
ただこれは「何が正しいか?」ではなく、人其々の「価値観の問題」でもあるんですよね。
「看取り」であっても細々とした選択に迫られるから、人任せではなく自分でも考えておかなきゃなと思いました。
ケアマネージャーさんに「お母さんの為に考える時間が与えられたということは良いことだったと思いますよ。」と言われました。ほんとにそうですね。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
教会での家族葬
葬儀は母が元気な頃に通っていた教会(交野市の星田チャペル)で行いました。
今は亡くなる方が多すぎて火葬場の予約が取れないそうです。長いと葬儀が1週間後になることもあるのだそう。
そのため、自宅に安置できない場合は「大阪市内の遺体安置場」に収容されるとのこと。『それはちょっと可哀そうだなぁ~💧』と思っていたら、「通っていた教会の礼拝堂」で安置してくださることになり救われました。
上には牧師さん一家が住む暖かい空間、式までの数日間は親交のあった教会員さん方が次々とお別れに訪れ、牧師さんが対応してくださいました。
そして、その時に個々に聞かせてくださった母のエピソードを牧師さんが伝えてくださいました。
コロナの為、血のつながりのある家族数人による会葬。
牧師さん自身も母との思い出を語ってくださりながら、意味の分かる口語体でのメッセージや聖歌なので理解しやすく、短くとも充実した良い式でした。
私は子供の頃の日曜学校以来教会は疎遠で、旦那もクリスチャンではありませんが、「キリスト教の家族葬、良かったなぁ~。」と呟いていました
私の母が先日、八十あとちょっとで二歳で、天国に旅立ちました。
葬儀も済ませ、お陰様で無事に見送ることができました。
介護施設での「看取り」
老衰で延命治療せずの自然死で、枯れるように穏やかな最後でした。
哀しい出来事ではあるはずなのに「美しさ」「爽やかさ」すら感じる去り方でした。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
以前までは「死」というのは怖いと思っていましたが、
母がそのプロセスを見せてくれたことで、老衰で死ぬことは怖くなくなりました。
先に逝って「大丈夫だよ。」と言ってくれている様に思いました。
老衰ではなくて最後の最後まで闘病の手段がある場合もありますから。
「そんなとき自分はどうしたいのか?」
今後じっくり考えていかないといけないこととも思いました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
色々書くことには尽きませんが長くなってしまうので、今回の記事では初めての「看取り」の体験談に絞って書くことにします。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「看取り」の選択
先月、母が体調を崩し入院させたとき、余命が短いことを告知してくださった医師によると・・・
「今は医学技術が進み過ぎていて、胃婁や人工呼吸などでいくらでも長生きさせることが出来てしまう。しかし、僕はそれは不自然なことだと思う。”人は食べられなくなったら終わり” それが自然なことだと思うし、仮に僕がお母さんの立場だったら「延命治療」はしたくはない。…というのはあくまで僕の意見なんだけど、どうします?お母さんはどんな考えの人でした?」
とのこと。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「病院で死ぬのが当たり前と思っていた私」
私は1972年生まれ、丁度、病院で亡くなる人と自宅で亡くなる人の割合が逆転する頃に生まれました。
『「看取り」が出来るのは生前から”死に対する問題意識”が高い元気な家族と、看取りに精通した医師や看護師に恵まれている人だけ。』と思い込んでいたので、最初の感情は驚きと不安でした。
『死ぬときに病院に行かないなんて!』
急に放り出されたような気持になりました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
今は「看取り」への転換期らしい
ケアマネージャーさんによると、「今は胃婁を選択する人も減少傾向で、訪問看護や往診医も普及し、「看取り」の体制が整ってきているので大丈夫ですよ。」とのこと。
”往診医との面談”、”施設との面談”をお願いして聞いてみると「看取り」の経験も多くこなしてきている様子。
自分でも本を読むなど調べてみると、大丈夫そうに思えてその方向で動きました。
元気な頃、母は「人間には自然治癒力があるんやで!」が口癖なくらいのナチュラル志向だったのが決め手でもあります。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「看護師の絵画友達に相談」
~”選択は委ねられる”けど、”充分な判断材料”が与えられるとは限らない現状なんだもの~
とはいえ、母親が亡くなるなんて生まれて初めてのこと。
母は12年前からの脳梗塞でコミュニケーションができない。
父は既に他界しているので、ひとりっ子の私が「母にとっての最良とは何か?」考えて選択しないといけない。
反応が無い事が殆どで哀しい気持ちになることのほうが多い、どこまでがゴールわからない長距離マラソンを走っているような12年間だったけど、ここはもうひと頑張りしたい。
ただ、そのときに「何を頼りに考えていいか?」わからないんですよね💦
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
というのは施設での「看取り」でも少し選択せねばならないことがあるんです。
全部お医者様任せだった昭和の頃と違って、「食事はどうしますか?ストップしますか?」「酸素はどうしますか?」「点滴はどうしますか?」「全部自由です。ご家族さんの意向で決めてくださって結構なんですよ。」って、聞かれます。
家族は「最良の選択」が出来ればいいだけなのだけど、最後に及んで「それをしたらどうなるか?」是非がわからないんです。メニューのAセットBセットを選ぶのとは訳が違うんですよ💦
そこで、10年来の付き合いになる同い年の看護師の絵画友達に相談させてもらうことにしました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「看取り」は死に目に会えなくても普通
友達とは、”ぶっちゃけた話”が色々出来たから不安が払拭されました。
「わからないことがわからない」んですから。
『病院で亡くなる場合は身体に計器を色々つけているから、危篤のときが察知できて、死に目に会わせやすい。でも、「看取り」はそういった計器に繋がれずに自然に亡くなるから、かえって死に目に会えなくても普通の事なんだよ。』には目から鱗。
実際に死に目には会えなかったんだけど、それを知らなかったら心穏やかじゃなかった可能性大。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「寄り添う助言」に救われる
幸い私は、最初の医師と看護師の友達が「自分の経験からどう実感しているのか?」それに沿ってアドバイスしてくれたから本当に良かった。
ケースによっては
医師「胃婁しますか?どうしますか?」
家族「胃婁すればどうなりますか?」
医師「長く生きれますよ。」
家族「では、お願いします。」
という感じで、「気管切開による人工呼吸」や、「投薬」「点滴」についても同じやりとりがなされ、結局「生きているだけ」という、「本人にとっては死ぬに死ねない苦しい状況」に陥ることも多いみたいですから。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
「医療や介護の問題」ではなく、「コミュニケーションの問題」と思った
「長く生きれますよ(医師)」と聞いて「では、やめておきます!(家族)」と言うのはよほどの信念が無いと選択できませんよね💦
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
↓ 参考になった本
看護師×僧侶×ケアマネージャーの肩書を持ち「看取り」について活動されている方 旦那さんを若くして病気で亡くされているけれど、その最後が”枯れるように穏やか”だったことから活動に目覚められたようです。たまたま検索で見つけたのだけどとても参考になりました。
↓ こちらも良かったです。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
事前に関心を持って「自分なりの価値観」を持っておくほうがいいと思った
点滴をしすぎると体が浮腫み肺に水が溜まり、痰が絡み、溺れるように苦しくなる、遺体も皮膚からその水分が染み出して処置が必要だったりする。
苦しそうだから酸素をするのだけど、もしかしたら自然の鎮痛作用を妨げているかも知れない。
また、苦しそうで見ていられず「看取り」を選択したけれど救急車を呼んで結局”スパゲッティー症候群”(身体に沢山チューブ類をつけた状態)になるケースもあるらしい。
ただこれは「何が正しいか?」ではなく、人其々の「価値観の問題」でもあるんですよね。
「看取り」であっても細々とした選択に迫られるから、人任せではなく自分でも考えておかなきゃなと思いました。
ケアマネージャーさんに「お母さんの為に考える時間が与えられたということは良いことだったと思いますよ。」と言われました。ほんとにそうですね。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆
教会での家族葬
葬儀は母が元気な頃に通っていた教会(交野市の星田チャペル)で行いました。
今は亡くなる方が多すぎて火葬場の予約が取れないそうです。長いと葬儀が1週間後になることもあるのだそう。
そのため、自宅に安置できない場合は「大阪市内の遺体安置場」に収容されるとのこと。『それはちょっと可哀そうだなぁ~💧』と思っていたら、「通っていた教会の礼拝堂」で安置してくださることになり救われました。
上には牧師さん一家が住む暖かい空間、式までの数日間は親交のあった教会員さん方が次々とお別れに訪れ、牧師さんが対応してくださいました。
そして、その時に個々に聞かせてくださった母のエピソードを牧師さんが伝えてくださいました。
コロナの為、血のつながりのある家族数人による会葬。
牧師さん自身も母との思い出を語ってくださりながら、意味の分かる口語体でのメッセージや聖歌なので理解しやすく、短くとも充実した良い式でした。
私は子供の頃の日曜学校以来教会は疎遠で、旦那もクリスチャンではありませんが、「キリスト教の家族葬、良かったなぁ~。」と呟いていました
私も大ボケして牧師さんに「結婚式ありがとうございました。」と言ってしまったくらい、”結婚式みたいなお葬式”でした。
↓ キリスト教専門の葬儀社があるのです。とても良かったです。
昨年末に枚方市展で奨励賞を頂いた作品もやっと母に見せることが出来ました。
今は天国で祖母や祖父、兄姉や夫と再会して、楽しく過ごしている事と思います。
最後の12年間はちょっと残念だったけど、
長い間、良い事も悪いことも沢山経験して、充実した人生でした。
ありがとう。お疲れ様。こちらは、これからも頑張るね。見守っていてね
私事ですが、長文お読みくださり、ありがとうございました(^▽^;)
↓ 補足記事を書きました。
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コメント
コメント一覧 (4)
慎んでお悔やみを申し上げます(合掌)
看取りの際に何かにつけの決断…ひとりっ子には荷が重いときが多々ありました
時間が経って落ち着いてくればまた後悔が噴き出してくることもありますが、『あのときの私はベストを尽くせた』と自信をもってください お母様に対しての一番の供養です
お疲れが出ませんように お返事は結構ですから🙂
黒川 しづこ
がしました
私も息子家族に貴方の取られた同じ経過終末を話していますが、キリスト教会の信者でなくても葬儀が行なえる事を知りませんてした。
とても参考になるコメントありがとうございます。
落ち着かれましたらまた、絵🖼談義楽しみにしています。最後になりましたがお悔やみ申し上げます。合掌。⭐️⭐️
黒川 しづこ
がしました